今年も１２月１０日から１６日まで、日本政府の拉致問題対策本部は「北朝鮮人権侵害問題啓発週間」のキャンペーンを展開している。「拉致問題その他北朝鮮当局による人権侵害問題に対する認識を深めよう」と大書した新しいポスターが東京の交通機関の壁に貼られている。この宣伝週間は２００６年安倍首相の時代に制定された法律による企てで、本年はすでに六年目である。本年も一一日の「拉致問題シンポジウムーーすべての拉致被害者を救うために」を中心にさまざまな行事がおこなわれる。

拉致対策本部は年間一二億円の予算を与えられている。情報収集に八億円使うことになっているが、そんなに情報はないので、予算は到底使い切れない。だから、年末のこの一週間のキャンペーンの機会に、北朝鮮が拉致を行い、人権抑圧をほしいままにしている、最悪の国であることを宣伝扇動するのに、大いに予算を支出するのだろう。しかし、それは反北朝鮮の政治活動であって、拉致問題の解決への前進を助けることにはならない。そのことはすでに明らかになっている。

ことは２００６年安倍首相により打ち出された次のような対北朝鮮政策３原則からはじまった。第一原則「拉致問題はわが国の最重要課題である」。だから内閣あげて取り組み、内閣に拉致問題対策本部を設置する。第二原則「拉致被害者は全員生存している。即時帰国を実現する」。北朝鮮が１３人拉致して、８人は死亡していると認めたのはうそをついているのである。だから、北朝鮮とは交渉はできないということだ。第三原則「拉致問題の解決なくして国交正常化なし」。この原則は対北朝鮮放送「日本の声」で毎日三回くりかえされている。すくなくとも８人が生きて帰らなければ、国交正常化はしないということである。北朝鮮がこの要求に応じる可能性はない。結局この安倍３原則からすれば、北朝鮮の現政権は相手にせず、その政権の崩壊を促すのが拉致問題解決の道だということになる。取るべき手段は制裁、貿易の全面停止、船舶の往来の全面禁止、それに在日朝鮮人と団体へのハラスメント、拉致対策本部を通じる反北朝鮮宣伝、特に青少年への教育である。

この３原則を確立するのに貢献し、拉致問題対策本部と一体になって活動しているのが救う会、正式には「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」である。初代の会長は佐藤勝巳氏で、現在の会長は西岡力氏である。二人とももとは現代コリア研究所の所長と編集長であり、北朝鮮の金正日政権を一日も早く打倒しなければならないと主張する人々である。現在西岡氏は拉致対策本部内の拉致問題専門家懇談会の座長をつとめている。この懇談会のメンバーには島田洋一救う会副会長や増元照明拉致家族会事務局長らが名をつらねている。

こういう拉致対策本部の活動が効果があがらないのは、もとになっているこの安倍３原則がどうにもならない非現実的、非合理的なものだからである。そのことは本年次第に明らかになりつつある。
本年の春以降は拉致対策本部の活動がなにか現実にあわないものにみえた。それは、いうまでもなく３月１１日の東北大震災のせいである。政府認定拉致被害者１７人の家族のなおつづく悲しみは理解されるとして、大地震と津波と原発事故で瞬時にして２万０３６３人（８月１２日現在）が命を奪われ、８万人以上の人々が故郷を捨てざるをえなくなったのである。「拉致問題がわが国の最重要課題である」という主張はもはやなりたたない。

その後さまざまな状況が出てきて、日本の政府と社会を支配してきた救う会と安倍３原則の体制が動揺しはじめた。まず５月５日読売新聞が外務省の幹部が拉致被害者全員生存説を否定していると報道した。ウィキリークスが暴露した米国の駐日大使館公電の中に、２００９年９月１８日に外務省のアジア大洋州局長斎木昭（さいきあきら）氏が訪日したキャンベル米国務次官補にむかって、語った言葉が報じられているということであった。暴露された公電の原文を入手して見ると、次のようにあった。斎木氏は、「北朝鮮が、２００２年に日本市民の拉致をみとめたのは『ミステーク』であったと思いこんでいると、嘆いた。局長は、北朝鮮は、安否不明の拉致被害者の何人かは殺していると信じていると言い、横田めぐみの運命は最大の問題だ、彼女はなお比較的若く（４０代であり)、世論は彼女のケースに対してもっとも同情的だからであると説明した。彼は拉致被害者の何人かはなお生きていると信じていた。斎木は新しい拉致担当大臣中井洽は強硬派（ハードライナー）だと心配していた。斎木は、最後に、日本は北朝鮮と話し合い、拉致問題をどのように進展させるかを決めることを必要としている、・・・と述べた。」

実は斎木氏発言の５ヶ月前４月２５日の「朝まで生テレビ」でキャスターの田原総一郎氏が「日本は・・・横田めぐみさんと有本恵子さんは生きているという前提でやっている」が、「外務省も生きていないことはわかっているわけ」だと発言して、救う会と家族会からのはげしい非難、抗議にさらされ、取り消しし、謝罪するという事件があったあとだった。

本年５月斎木氏発言が報じられると、通常はウィキリークスの暴露は無視することになっているにもかかわらず、現インド大使の斎木氏は飛び上がって、これを否定した。５月２７日の衆議院拉致問題特別委員会でも当時の松本外務大臣は斎木氏ら日本側の同席者にも確認したが、そのような事実は断じてないと答弁した。しかし、田原氏に対しては猛烈に攻撃した救う会はこの件にはほとんど触れないようにした。救う会のスローガンは「生きているのになぜ助けられない！」であり、斎木発言は安倍第二原則を否定するものであるのにもかかわらずである。いかに斎木氏らが否定したとしても、ウィキリークスが暴露した米大使館の公電の存在は否定しようがない。だからこのことが話題にならないように救う会は逃げるほかなかったたのである。

さらに５月１０日「救う会」の国民大集会での横田滋氏の発言が救う会にさらなる衝撃を与えた。横田氏は小泉首相時代外務省局長田中均（ひとし）氏は２５回も北朝鮮と秘密交渉したと述べ、どうしてこのように交渉ができないのかと発言したのである。田中均氏は救う会の敵であった人物である。横田氏の発言は家族会の有力メンバーが交渉を望んでいることをはっきり示したのである。横田滋氏が交渉を望むと述べたのはこのときが最初ではない。

　今年２月５日横浜市で開かれた同じく政府主催の拉致問題神奈川県集会で横田氏は次のように述べた。「麻生政権後は、一度も日朝交渉が実現できていません。・・北朝鮮への制裁だけでは解決は難しい。ぜひチャンスを捉えて、もっと交渉を実施して欲しい。そのためにも世論の高まりは大切だと思います。ぜひ皆さん応援してください。」

ここにいたって救う会には交渉を否定しているだけではだめだという圧力が家族から出てきたように見える。７月には中井元拉致担当大臣、拉致議連副会長の北朝鮮との接触の試みが話題になった。中井氏は、菅総理からの委任で来たと北朝鮮側に伝えて、会談をもとめ、今後は北朝鮮を非難しないと述べて、交渉をもとめたという。

そして、ついに救う会、家族会の新しい運動方針が打ち出された。１０月９日救う会・家族会の合同会議で、全被害者の救出方法として二つの方法をとるとして、その第一に「交渉による救出」をあげたのである。「我が国政府が、1）「全被害者が帰らない限り、制裁を強め支援はしない」という姿勢を堅持し、2）制裁と国際連携の圧力などにより北朝鮮がわが国との交渉に出てこざるを得なくなる状況を作り、3）主体的交渉を行うこと」が掲げられた。従来の前提をすべて守りながら、とにかく交渉をすることをみとめざるをえなかったのである。救出方法の第二は「北朝鮮混乱時の実力による救出」である。おそらくこちらにはるかに執着しているものだろう。しかし、まったく現実性がない方法である。

こうして、救う会と家族会は「いまこそテロ国家北朝鮮に全面制裁を！」というスローガンにならべて、「圧力を背景にした主体的交渉で全員救出せよ」というスローガンを掲げることになったのである。救う会の路線は破綻をみせはじめた。

　さて野田首相は拉致問題にも、日朝交渉にも明確な考えをまったく持っているとは思えない。野田首相は９月２日に就任して以来、家族会との面会を異例にも２回もおこなった（９月１１日、１０月８日）。口先だけだった菅首相とは違って、実があるとの反応を得た。そこで、二度目の面会のさい、意味があるなら自分は訪朝する用意があると言い切ったのである。しかし、目下いかなる方策もなく、家族会のブルー・リボンをはずせない。総理はアメリカにも、韓国にも、国連にも、ＡＰＥＣにも、どこにもこのリボンをつけていく。しかし、リボンをつけているだけで、問題が解決できないことはわかっている。総理は拉致問題の解決のために何かすることを迫られている。その圧力は時とともに高まっているのである。玄葉光一郎外相もおなじ立場にある。

一方政権の中には、日朝国交正常化を主張する人、そういう組織に関連している人がかってなく多い。９月５日に衛藤征士郎会長のもと再生した日朝国交正常化促進議員連盟の副会長の２人、鉢呂吉雄氏と中川正春氏が入閣した。鉢呂氏は失言で大臣を辞任したが、文科相になった中川氏は「北朝鮮難民と人道問題に関する民主党議員連盟」の代表もしている人で、北朝鮮に関心が強い人らしい。さらには党内の左派リベラルの会代表平岡秀夫氏が法務大臣となっている。さらに衛藤日朝議連の幹事長代行である城島光力氏は輿石（こしいし）党幹事長のもとで、党幹事長代理になっている。さらに北朝鮮との交渉に意欲を見せた前原前外相は党の政策調査会会長に就任した。また元社会党の斉藤勁氏は筆頭官房副長官の位置にいる。彼もリボンをつけて、野田首相の韓国訪問に同行している。この人々はうごかざるをえなくなるであろう。